2014年11月7日金曜日

20141107:Pretty Young Thing


「かわいいもの」というとまっ先に浮かぶのが、
かつて、いとうせいこうが『an an』で連載していた
「切なさのツボ」というコラム。
ここには、たとえば、「吊った足の小指」とか、
イエローカードやレッドカードを出されたときの
ヨーロッパ人選手の仕草、なんかに感じる
不完全さに心くすぐられるかわいさが書かれていました。
もう10数年前のこと。
読んでいた当時は、中身に共感してぷくく…と笑うくらいだったのだけど、
一歩離れてよく考えてみたら、「切なさ」と題して
「かわいさ」について話していることに妙を感じてしまった。

たとえば、赤ちゃんにかわいさを感じるのは、切なさゆえに。
儚く、守ってあげなければならないがために感じる「かわいさ」。
あるいは、守られなければならないために醸し出す「かわいさ」。
ここに、愛情ホルモンと称されるオキシトシンなんかもかかわったりして、
私たちは身体に、むしろ、細胞に支配されながら
切なさを「かわいさ」に置き換える。
それこそ数年前に誰かが、女子高生の言う「かわいい」について
論文のようなものを出していて、
そこでは「かわいい」の定義の拡大を指摘していたと記憶する。
かなり具体的事例で迫っていたけど、
趣旨としては写真集を見るのと大差なかった。
そもそもそれは、広告の方法論としての「かわいい」を説いたものだったし、
それはそれでおもしろかったからいいのです。

感覚的、というのはかなりオブラートにくるまれた表現。
「かわいい」を「感覚的」とするのは逃げの口上かもしれません。
実際は、それは説明しきれない本能を指しているのだから。
だから、そう感じるメカニズムは意外と単純かもしれないし、
(もう知られていることなのかもしれないし)
ま、たぶん、人文的にやるには限界があるだろうな、と思う。

なんてエラそうに言いながら、
最初の写真に出てくるものが何なのかすらわからないのでした。
ただ、私にとっては、すぐにいとうせいこうのコラムを思い出すような、
ちょっとしたくすぐりと、その愛おしさがこの植物にある、
というダケのことだったりするのです。

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--Michael Jackson "P.Y.T."

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