2015年2月19日木曜日

20150219:三役揃い踏み。


蕾がいっぱいついてるなーと思っていたのが今月の初め。
先週ごろには、もう咲きそうになっていたのが、いよいよ。

これは桃。
去年の夏の終わりには、大きな桃をたくさんつけていました。
あ、別の木に、ですけど。
実をつけていた木のほうは、全く蕾の兆しがないのが不思議です。
「桃」の「兆し」は妊娠の兆しを意味するそうで、
そのことから「桃の節句」なんてのはきているらしい。
花期は3月中旬ごろからとのことなので、少し早い開花となりました。



梅の花も少し咲いていました。
まだ何も花が咲いていないころにそっと咲いていたりするもんで、
普通は発見するとちょっとうれしい気分になるもの。
でも、ここでは桃の花のほうがすでに賑やか。
しかも、桃と梅は隣に立っている。
白く透明感のある梅の、楚々とした花の美しさは健在ながら、
なんだか桃の勢いに負けてしまっています。


これは桜。
年の明ける前から咲いていた十月桜なのです。
かれこれ数ヶ月もの間、ずっと咲いていて、
散りどきを忘れてしまったかのようです。
薬草園には桜が何種類か植えられていますが、
春に咲くものはまだもう少し、といったところでしょうか。

ともかく、気分に終止符を打ちそうな
バラ科の三役揃い踏み、です。

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NUJABES "MOON STRUT"

2015年2月18日水曜日

20150218:椿。


椿がしっかりと開花していました。
ただ、咲いてるものがあんまりキレイじゃない。
長い冬を待っている間に力尽きたような、
まるで葉っぱに全ての力を費やしてしまったような、
(いや、決してそうではないのでしょうが。咲いているし)
そんなふうに見えるくらいボロボロなのでした。

そういえば、理科で一番最初くらいに習うのが、
植物が育つ三大要素「水」「日光」「温度」。
畑をちらりとのぞいてみると(今日は寒いから水やりはしない)、
諦めていたキャベツやハクサイの葉っぱたちが、
新しい芽を出してスクッと立っていたのでした。
何度も何度も生きようとトライする姿はあまりに健気。
ここ数日はその三大要素が揃っていたもんね、ホンマやね。
こないだ先生が「もうあれはダメやろうから、
2月の半ばには掘り起こして他のもの植えよう」と言っていたを思い出して、
先生に思い直させるくらい、あと数日のうちにしっかり育つよう、
心の中で祈ってしまいました。
ま、でも、他のものを植えるんですけどね。

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D'Angelo and The Vanguard "Really Love"

When you call my name
When you love me gently
When you're walking near me
I'm in really love with you
When you look at me
I open up instantly
I fall in love so quickly
I'm in really love with you
I'm in really love with you

2015年2月17日火曜日

20150217:オオイヌノフグリ。

ここで書いた話かどうか、すっかり忘れてしまいました。
二度目だと気付いても、目をつぶってください。
人生で初めて名前を覚えた植物はオオイヌノフグリ。
そのときのことは、今でもしっかりと覚えているのです。

私の姉は、子どものときから、よく草むらに入っては
「この植物は見たことがない」だの「このキノコは初めて」だのと
喜んで植物図鑑で同定する、という作業を黙々とする人でした。
私の人生初の挫折は「姉と同じようにはできない」ということ。
姉がいつものごとく草むらに入っていく姿をそばで眺めながら、
あるいは、家族ドライブの道中で峠に差し掛かったときに
「お父さん、あそこに見たことのないキノコがある」と言って車を停めさせ、
黙々とキノコの同定に勤しんでいる背中を見ながら、
「もう帰りたい」と心の中で思っていることに気がついたときに、
私は植物やそういった類のものに興味を持つことを諦めたのです。
「姉と私は違う」ということを幼いながらしっかり胸に焼き付けたのでした。

その姉が、私に教えてくれたのがオオイヌノフグリ。
たぶん、まだ小学校に入るより前のことだと思います。
道端にしゃがんで「これ、オオイヌノフグリ。
犬の顔と似ちゅうき、オオイヌノフグリっていうがで」
と教えてくれたのでした。
私はどうしても「犬の顔と似ている」とは思えなかったのだけど、
姉のいうことは正しいはず、きっと、私の見方が悪いのだ、と信じて、
「?」と思いながら「ホンマやね」みたいなことを言ったのでした。

冬と春の境目の日。
コートがいるかいらないか、くらいの頃のこと。
私は毎年、ふっとオオイヌノフグリと目が合うごとに、
「あんたの顔は、ちっとも犬とは似てないよ」と呟くのです。

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Tom Misch & Carmody "So Close"

2015年2月12日木曜日

20150212:カンシュツブ(仮名)


私のメモには堂々と「ケンポナシ」とあるのですが、絶対に違っています。
これは、“明日確認しなければ物件” ですね。

水やりを再開してやたらと目につくようになったのが、ネギ。
他のものは、水も少ないし(…でも、雨は降ったよね、けっこう)、
温度も低いし、で目につくようになるほど伸びてもいないので、
水をあげていても、なんだか徒労な気分ではあるのです。
その点、ネギはスクッと伸びていてうれしい。
私が水やりを再開したから…と申したいところですが、
さすがにそれも違いますね。

いつも、畑に水をあげ終わったら、
薬草園側に向き直して、入り口から、垣根沿いに、
木々にも水をおすそ分けするのです。
これは、特に誰かに言われたわけではなくて
(いや、そもそも畑すら、誰にも言われていないのだけれど)
先生がそうやって水をやっているのを発見して以来、
なんとなく真似をしているのです。
おすそ分け最中に発見したのが、この朱色のツブツブ。
(CMYKで言うなら「M60Y40」くらいの。私はけっこうな頻度で使う)
「うわわわ、なんやこれ」と、思わずつぶやいたのでした。

この1月からの薬草マイスター講座では、
「薬草園をガイドできるようになる」というのをテーマに、
先生が薬草園の草木をひとつずつ解説していっているのですが、
そのときには、この木は完全にノーマークだったように思います。
というか、この状態で立っていたかな。
この状態だったら、今の季節ではすごく目立つはずなのに。

明日はおじさま方が来られるので、聞いてみようと思います。
取り急ぎ、「カンシュツブ(仮名)」としておきましょう。

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Madonna "Living For Love"

こないだのグラミー賞、マドンナのステージ、すごかった。
本当に50代。これで50代。ここまでくると、「壮絶な努力」すら、芸術やな。

2015年2月11日水曜日

20150211:山野草。


なんとおっしゃる方々かはさっぱりですが、
薬草園の足元のそこここに雑草が花を咲かせておりました。
せっかくですから「山野草」と呼んであげたい。

御年70ン歳の数学の先生が退職されるということで、
その最終講演のためのスライドと配布資料の制作を手伝いました。
さすがにたくさんの教育現場を渡って、
様々な生徒や学生との出会いがあって、
それらの話と、そこから先生が得た教訓に深く頷いてしまった。
作りながら、先生の話の柱は「経験できる学び」と「待つこと」だと
私は勝手に解釈したのだけれど、それで合っているかはナゾ。
「それぞれに感じてもらえることが、自ずと結論になる」とのことなので。
ま、でも、とにかく、大阪大学の鷲田先生の話、
「待つということ」を思い出したのでした。

--引用始め

待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。
それを先に囲い込んではならない。
つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、
それが<待つ>には賭けられている。
ただし、みずからを開いたままにしておくには、
閉じることへの警戒以上に、努めが要る。
<待つ>は、放棄や放置とは別のものに
貫かれていなくてはならないからだ。 
<待つ>は偶然を当てにすることではない。
何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。
予感とか予兆をたよりに、
何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。
ただし、そこには偶然に期待するものはある。
あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、
それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。
その意味で、<待つ>は、いまここでの解決を
断念したひとに残された乏しい行為であるが、
そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、
きっと、待つことすらできない。
いや、待つなかでひとは、おそらくはそれより
さらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。
何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。
だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ
待つことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。
わたしたちがおそらくは本書の最後まで引きずることになるであろう事態、
つまり、待つことの放棄が<待つ>の最後のかたちであるというのは、
たぶんそういうことである。 
(かなり中略) 
「あらゆる宗教の全問題はおそらく保証がないことに帰着する」
と言ったのは、J・デリダだが、そのデリダはそれに次のように続けていた。
「あるかもしれないし、ないかもしれない。
むしろ、あるかないかということは問題ではなくて、
重要なのは、あるかないかは保証されていないということなのだ」、と。
*『「待つ」ということ』(鷲田清一著/角川選書2006年)

--引用終わり

数学の先生は退職した、とは言っても、
来年からも引き続き特任でいらっしゃるそうで、
ベルトの上にでん、とお腹を乗せながら
「さすがにもう、疲れた」と、ふーっとため息を漏らしていました。

山野草は、これは完全に、待つこともなく、ふと足元を見ればあったのでした。
早く、オダマキやオキナグサの季節になればいいな。
昨年、キレイなのにお目にかかれなかったことを思い出しながら、
期待もせずに、ただ、待つのです。
昨日から畑への水やりも再開。
心なしか、植物が元気になっている気がする。
うー、サボりすぎました。

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Emily King "Distance"

2015年2月10日火曜日

20150210:新しい季節。

やっといろんなことが片付いて、先週から薬草園に復帰。
行っていなかった間にたくさんの芽吹きもあったようす。
これは、シャクヤク。
いつの間に種を植えていたのだろう。
どうやら薬草マイスター講座の方々のお仕事によるものです。
真っ赤な芽は、こうして近づいてみるとよくわかるのですが、
畑をパッと見たくらいでは判別は難しい。
だから、間違って掘り返されてしまうこともあるようです。
とにかく、芽が出てきました。

さて、薬草園の手前にハーブ園を造る案が持ち上がっています。
それこそ薬草マイスター講座のおじさま方といっしょに
私も手伝うようで(←よくわかっていない)、
テスト前、先生に「ラフスケッチを描いてや」と言われたものの、
要領を得ぬまま今に至る。
それも、今週末から作業開始しましょう。
おじさま方も今週末に遊びに来られるそうなので。

投稿していなかった分は、また追っかけながらアップします。
薬効なども追加していかねば。

2015年2月1日日曜日

20140201:カワラナデシコ。

すっかり冬の、なんにもない土の上に、
(うーん、ニッケイの木の傍…だったかもしれない)
ハッとするようなピンクのナデシコ。
本当にこの季節に咲くので合っているのでしょうか。

うちの大学の正門の花壇には、いろんなナデシコが植えられています。
医療系を中心とするこの学校には女の子がたくさんいて、
だから「ナデシコ」なのでしょうか。
ナデシコ、とても可憐に見えますが、生命力は抜群です。
私の地元なんか(高知の山奥)では、そこここに生えているのです。
あのナデシコジャパンも、可憐さというよりも、
案外とそういうところで名前がぴったりくるのかもしれません。

薬草園の入り口近く…とは言っても、
駐車場とは反対側の、川沿いの道に面したほうの入り口近くにも
クチナシの木がいくつか立っています。
それらの足元を見てみると、新しい芽がいくつもいくつも。
たしか、実がそのまま落ちたのでは発芽しないはず(だったかな?)。
鳥が食べて、とか、たしかそんな行為を経て、ようやく発芽と相成るのです。
(また調べてみます)

外はまだまだ寒いのに、春の兆し。