2015年2月11日水曜日

20150211:山野草。


なんとおっしゃる方々かはさっぱりですが、
薬草園の足元のそこここに雑草が花を咲かせておりました。
せっかくですから「山野草」と呼んであげたい。

御年70ン歳の数学の先生が退職されるということで、
その最終講演のためのスライドと配布資料の制作を手伝いました。
さすがにたくさんの教育現場を渡って、
様々な生徒や学生との出会いがあって、
それらの話と、そこから先生が得た教訓に深く頷いてしまった。
作りながら、先生の話の柱は「経験できる学び」と「待つこと」だと
私は勝手に解釈したのだけれど、それで合っているかはナゾ。
「それぞれに感じてもらえることが、自ずと結論になる」とのことなので。
ま、でも、とにかく、大阪大学の鷲田先生の話、
「待つということ」を思い出したのでした。

--引用始め

待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。
それを先に囲い込んではならない。
つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、
それが<待つ>には賭けられている。
ただし、みずからを開いたままにしておくには、
閉じることへの警戒以上に、努めが要る。
<待つ>は、放棄や放置とは別のものに
貫かれていなくてはならないからだ。 
<待つ>は偶然を当てにすることではない。
何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。
予感とか予兆をたよりに、
何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。
ただし、そこには偶然に期待するものはある。
あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、
それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。
その意味で、<待つ>は、いまここでの解決を
断念したひとに残された乏しい行為であるが、
そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、
きっと、待つことすらできない。
いや、待つなかでひとは、おそらくはそれより
さらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。
何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。
だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ
待つことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。
わたしたちがおそらくは本書の最後まで引きずることになるであろう事態、
つまり、待つことの放棄が<待つ>の最後のかたちであるというのは、
たぶんそういうことである。 
(かなり中略) 
「あらゆる宗教の全問題はおそらく保証がないことに帰着する」
と言ったのは、J・デリダだが、そのデリダはそれに次のように続けていた。
「あるかもしれないし、ないかもしれない。
むしろ、あるかないかということは問題ではなくて、
重要なのは、あるかないかは保証されていないということなのだ」、と。
*『「待つ」ということ』(鷲田清一著/角川選書2006年)

--引用終わり

数学の先生は退職した、とは言っても、
来年からも引き続き特任でいらっしゃるそうで、
ベルトの上にでん、とお腹を乗せながら
「さすがにもう、疲れた」と、ふーっとため息を漏らしていました。

山野草は、これは完全に、待つこともなく、ふと足元を見ればあったのでした。
早く、オダマキやオキナグサの季節になればいいな。
昨年、キレイなのにお目にかかれなかったことを思い出しながら、
期待もせずに、ただ、待つのです。
昨日から畑への水やりも再開。
心なしか、植物が元気になっている気がする。
うー、サボりすぎました。

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Emily King "Distance"

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